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■長州処分 【京】文久3年8月29日、朝廷は所司代稲葉正邦に命じて、長州藩主父子へ上京延引・藩士退京の沙汰書を伝達させました。 「 長門宰相 同少将 去る18日、毛利讃岐守、吉川監物以下家来共、不束の取計い之有り、如何思召され候間、宰相(=長州藩主毛利敬親)父子取調べ仰せ付けられ候。之より暫く九門内藩中の輩、往来無用たるべき御沙汰候。且つ過日行幸御治定に付き、父子の内上京哉の由に候え共、行幸御延引の事故、上京の儀相見合すべく、追て御沙汰之有べき事、 去る18日、益田右衛門介より勅使へ差出候書付二通、返却の事 別紙 留守居並に添役一両人は滞京、その余は御用無く候間、帰国之有るべく候事」 (出所:『七年史』所収の沙汰書:読み下しbyヒロ) 2001.10.11 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」「長州処分」 ■長州藩日誌文久3 【鹿】文久3年8月29日、薩摩藩士奈良原幸五郎は、京都から帰国して政変を報告しました。 ■長州家老の入京・嘆願 【長】文久3年8月29日、長州藩家老根来上総は、藩主毛利敬親の嘆願書を携え、山口を出立しました。 根来は、8月20日に大和行幸の詔と長州藩主父子上京の沙汰を伝達するために帰国したばかりでした。同22日には世子定広の上京が決定しましたが(こちら)、翌23日に政変の報が達し(こちら)、敬親は根来に宍戸九郎兵衛と共に上京して嘆願書を朝廷に提出するよう命じていました。 ■テーマ別文久3年「家老の入京・嘆願」 参考:『修訂防長回天史』p540(2004.12.16) *** ■長州の内訌 【長】同日、萩にいた椋梨藤太・中川宇右衛門・村岡伊右衛門らは山口に至り、藩主敬親に謁して、京都の政変に関して藩要路を弾劾しました。(4月に藩庁が萩から山口に移されていました) <ヒロ> 政変後、長州藩では藩内に戒厳令を敷き、長府・清末の二支藩は下関に、徳山藩は南海に、吉川家は小瀬川口に出兵準備をしました。しかし、今後の方針について藩論はなかなか統一できませんでした。<七卿及び長州藩の正義と中川宮と会津・薩摩藩の奸は明らかであり、直ちに近畿に進軍すべき>という激派の主張する進発論と、<積年の素志を貫徹するには、力を尽くして嘆願し、七卿の帰京・復位・復職に尽力し、謹慎恭順を専らとすべき>という穏健派の恭順論が対立していたからです。椋無らは穏健派でしたが、同時に藩政を握る周布らとは元々政治的に対立していました。( 坪井派(椋無派)VS周布派(村田派)の政争については「長州藩かけあし事件簿」をどうぞ) 管理人は、「俗論党」とされ、悪役視されている椋梨藤太の本当のところに関心をもっているのですが、勉強不足かつ時間ぎれ・・・・・。『椋梨藤太の覚書』という史伝はもっていますが、どのへんまで史実なのか確認できないので・・・。 関連:■テーマ別文久3「長州内訌」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史』p542、『徳川慶喜公伝』2p284(2004.10.11) ■守護職会津藩の財政 【江】文久3年8月29日、幕府は会津藩主松平容保に1万9500石の領地増加の命を下しました。(役知5万石のうち、すでに付与された3万500石の残り分) 「御役知役五万石内、先達て三万五百石余下され候に付き、此度近江国神崎蒲生郡の内、込高一万九千五百石余下さるの委細の儀は御勘定奉行へ談じらるるべく候」(出所:『七年史』所収の書:読み下しbyヒロ) <ヒロ> 神崎蒲生はもともと井伊家の所領でした。 2001.10.11 関連:■守護職日誌文久3 |
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